今日が明日だったとき(改訂)


部活顧問が急に喋りかけてきた。


「なぜ、人は生まれてきたのか。何のために人は生きるのか。
 そんなことを考えたことはありますか?」




誰も答えなかったので先生は自問自答した。


「人は幸せになるために生きてるんだよ〜。
 人生幸せじゃないと楽しくないよね〜。」



私の中は全くのさかさまだった












その場で言うのも良かったかもしれないけど、その場所に何人かいたし、名指しで聞かれなかったから言わなかった。
だからここで言わせろ。









「私は人を幸せにするために生まれてきた」








誰を幸せにするかって、私によって幸せにされるターゲットは 親 だ。

子どもができることはプロセスから見ても生物的に快感を得られることだろうし
腹を痛めて、お金を費やして育てた子どもがぐんぐん成長していくのは、楽しいことだろう。
祖父母だって、私という孫が生まれてくるのを望んでいたに違いない(これはすこし他人ごとになっちゃうかもしれないけど過ぎるか)。

私も、子どもを産む決意をしたときには、幸せになるために子どもを産むし、私の親だって少しぐらいは私が子供を産むことを期待しているだろう。
私も、自分の子どもが生まれたら、少しは彼らに孫を産んでほしいと期待すると思うから。




私によって幸せにされるターゲットは他にもいる。
と思いたい。


友人とか、恋人とか、気の合う人とか、
例えば私が何か薬の開発者ならその薬で病気が治った人、
例えば私が小説家ならその小説で人生が良い方に一変した人、
例えば私がコンビニの店員ならそこを取り仕切る人やお客さん、私が清掃員ならそこに来る人...

しかしこちらは、多種多様すぎるし、なにか腹黒いものがあることがあるのでまあ、あんまり自信無い。






でも、前者(親の方)は結構自信あるんだ。


「おまえなんてうまれてこなけりゃよかったんだ。」なんて言われる人は、相当いないと思うのだが。

もし、言われたことある人いたら、多分それ相当相手がいらいらしてたとか、大人じゃなかったんじゃない?
(大人でも、心が病気だっていうことだってあるよ。)

もし言われたことあった人いたら、
大丈夫、父さんも、母さんも、ほんとのほんとはそんなことおもってないから。









もし、そこに自分ではない、よく似た他のだれか、もしくは他のだれかがいたら、それも幸せだったんじゃないの?やっぱり私じゃなくてもいいんじゃないの?...私なんていらないんじゃないの?

っていうのも、考えてみるのもいいけど、



そんなパラレルワールドのことなんて知りませんから

今は、あなたしか、私しか、そこにはいないんだから